——戦死者の遺品を漁る動画と、巨額の支援金に潜む欺瞞
スマートフォンを開けば、今日も戦場の冷酷な現実がアルゴリズムによって流れてくる。
画面の中では、冷たくなったロシア兵の遺体から、ウクライナの兵士が装備や所持品を無造作に剥ぎ取っていた。泥に塗れたポケットから手帳や私物が引きずり出され、弾薬や物資が手際よく検分されていく。
その動画についた日本のコメント欄をスクロールしたとき、胸の奥底から込み上げてきたのは、言いようのない寒気と強烈な違和感だった。
「命の尊さが失われている」
「彼にも家族がいたはずなのに、あまりにも悲惨だ」
「早く平和が訪れてほしい」
並んでいるのは、耳ざわりのいい、どこまでも無害で清潔な感傷の言葉ばかりだった。
泥と血のなかの生存計算
画面の向こうで行われているのは、物語でもドラマでもない。ただの冷酷な「生存のための代謝」だ。
極限の前線において、死者の尊厳などという言葉は一銭の価値も持たない。生き残っている者にとって、転がっている遺体は「今夜自分が撃ち返すための残弾があるか」「明日を凌ぐための食料があるか」を確認するための対象にすぎない。ためらいや嫌悪感で手を止めれば、数時間後に弾切れを起こし、あるいは寒さと飢えで自分が次の死体になる。
血で滑る装備を引っ張り出し、泥水を吸ったレーションを奪い取る行為は、善悪を超えた剥き出しの生存本能そのものだ。そこにあるのは、死者から生者へと物資を移し替える乾ききった現実の計算だけである。
だが、暖房の効いた部屋で飯を食い、蛇口をひねれば温かい水が出る安全地帯の住人は、その切迫感を想像することすらしない。泥に塗れた缶詰ひとつを奪い取る手の切実さをすべて削ぎ落とし、自分好みの「悲劇」へと勝手に仕立て上げて消費している。
「日本が」注ぎ込む巨額の資金と、目を背ける国民
何よりも薄寒いのは、日本という国、そしてそこに暮らす自分たちの欺瞞だ。
日本政府はウクライナに対して、これまでに何千億円、兆円規模という膨大な金額の支援を注ぎ込んできた。「人道支援」や「財政支援」という耳あたりの良いラベルが貼られていようと、その巨額の資金が国家機能を維持し、結果として戦争継続のための巨大な歯車を回し続ける油になっているのは紛れもない事実だ。
私たちは自国の税金を通じて、間接的にあの泥沼の殺し合いの舞台装置を買い支えている。銃身を握っていないだけで、日本という国家も、その国民も、この戦争のれっきとした「スポンサー」であり当事者なのだ。
それにもかかわらず、画面に血と泥が映し出された瞬間、日本人はまるで自分たちが銀河の果てにいる無関係な第三者であるかのような顔をする。戦争反対と叫んでも誰にも撃たれない無菌室の中から、「可哀想に」「早く平和を」と涙を流す。
金を注ぎ込んで戦争の継続を可能にしながら、現場で起きる生々しい現実からは目を逸らし、安全な高みから上滑りした同情を垂れ流す。その無責任さと、自らの手についた見えない血に対する完全な不感症こそが、吐き気を催すほどの欺瞞の正体だ。
「可哀想」という名の傲慢
「可哀想」という言葉は、圧倒的な安全地帯に身を置き、相手を見下ろす位置に立っていなければ絶対に出てこない。
痛みを分かち合う覚悟も、代わりに泥を被るリスクも負わない人間が、高い場所から施しのように投げつける安価な憐憫。そこには死者への敬意も、生き残ろうとする者への畏怖もない。ただ「他人の凄惨な死に涙を流せる、感受性豊かな優しい自分」という自己満足の小道具にしているだけの浅ましさがある。
乾ききった戦場の冷徹さと、それをオモチャのように弄ぶ感傷のねっとりとした湿り気。
画面の向こうで繰り広げられる剥き出しの生と死に対して、何の責任も背負えない外野が垂れ流す同情は、優しさなどではない。現実を直視できない者たちが身にまとう、もっとも無自覚で残酷な暴力なのだ。

